2023.06.05

つねづね草 ~元校長のひとり言~

 5月31日は旭出学園創設者である三木安正先生の命日です。1984年没、72歳でした。今から思うと、まだまだこれからという年齢です。1983年の手術を受ける直前の職員会議で、「今度会う時は声が出ないかもしれないから、手話でも覚えようか。」と残された言葉を思い出します。そして来年は、没後40年という節目の年を迎えます。三木先生は、戦後日本の障がい児・障がい者の教育と福祉の連続性・連携の必然性を説き、自らの理論を実践する場として1950年に旭出学園を創設し、子どもの成長と共に、生涯を支援するという理想の基、学校卒業後の働く場、さらにその人らしく安心して生活できる場をつくり続けました。1960年に学校法人旭出学園となり、1972年に社会福祉法人富士旭出学園、1974年に社会福祉法人大泉旭出学園を設立してきました。旭出生産福祉園園長の浅井浩氏は、「旭出学園の歴史を理解することは、戦後日本の知的障がい児・者を巡る教育や福祉の諸問題を考えることでもある」と説いています。「諸問題とは、学齢期とその前後に関する問題であり、特に学齢期以降の就労や地域生活、親亡き後や老後の生活に関する問題のことです。」「旭出学園は今日の日本の縮図」との話も納得します。問題は山積していますし、私たちだけの手におえるものでもないのでしょうが、微力ながらもできることをやり続けることから見出したものを世に問うことができれば良いのではないかと思います。

 「小さな学校だからできる大きな支援」この言葉が私の真ん中にあります。三木先生が必要と考えた施設として1960年教育研究所開設、1979年幼稚部・専攻科設置、三木先生没後も旭出学園が取り組んできた1986年マカトン法導入、1999年生活自立寮の指導開始、2000年同窓会旭出あおば会余暇活動支援開始、2022年生涯支援部設置などできることを考え実現していくことが、障がい児・者の教育と福祉の実践モデルになり、広がって行けばよいと思います。

 さて今回は、三木先生のお話からの流れで「教育と福祉」についてです。1976年初版の「私の精神薄弱者教育論」(三木安正著 日本文化科学社)を紐解いてみました。よく抜粋されるのは、「“福祉”というのは目標であって、“教育”というのはそれを達成する手段である」という一説です。つまり、「“福祉”というのは人間が幸福な状態にあるということであるが、一般的には幸福な状態にないものを幸福な状態にするというように使われていることが多いと思う。」福祉とは人間を幸福な状態にする条件の設定と考え、教育はその対象者が幸福な状態になるように、その目標を達成するための心技体を身に付ける人間形成、人としての成長を支援する営みだと解釈しています。人間形成という視点から、まず獲得すべきは身辺生活の自立ですし、それに基づいて集団生活への参加に導くことが必要になります。集団に参加し、対人関係を築いていく中で、自分を知り、相手を知るようになり、何が知りたいか、何ができるようになりたいかという意欲が生まれ、知的にも人間的にも発達していくという過程をたどるのだと思います。生活の目標が考えられるようになれば、生きがいができてくる、心豊かに生活する人生が見えてきます。その過程が教育の醍醐味であり、それは支援者にとっても生きがいになっていきます。それは学校と福祉事業所という場所で分けられることではなく、どちらの場所にとっても、人が幸せになるための「目標・福祉」と「手段・教育」は必要であることにかわりはありません。

 現在の日本国の現状は、7人に1人の子どもが貧困だと言われ、ユニセフ報告書による精神的幸福度は38国中で37位でした。唖然としますし、そうだとも感じます。三木先生は「発達障害のある人たちが、健常者と同等に幸せな社会生活を送れるようにするにはどうすればよいかということが、われわれに課された最終的な問題である。」と記しています。発達障害の有無に関わらず、日本の子どもたちは40年前より深刻な問題に直面しているのです。老人福祉、児童福祉と叫ばれるのはまだみんなが幸せを模索しているからなのでしょう。設備が充実した立派な施設を作ることが目標なのか、そこに通う人、そこで働く人、それぞれの人の幸せがそこに集まらなければ、そこに笑顔が集まらなければ、器は生かされません。何を目指してどう向き合っていくのか、まさに人づくり、一人一人の「福祉と教育」の問題なのだと思います。

創始者の「残されている夢」はただみんなでみんな幸せになれ